LOGIN右脚が、銀灰色の光を引いた。
次の瞬間、リュゼルの身体は墓守蜈蚣の顎先から消えていた。
左右へ開いた牙が何もない岩床へ突き刺さる。耳を塞ぎたくなる破砕音が洞窟を揺らし、砕けた石が背中を叩いた。
気づいた時には、十歩近く先へ進んでいる。
自分で走った感覚がなかった。
景色だけが後方へ弾け飛び、身体が無理やり別の場所へ移されたようだった。背中の革袋が遅れて肩へ食い込み、中から月角兎の幼体たちが甲高く鳴く。
「大丈夫だ。離さない」
振り返る間もなく、右脚に激痛が走った。
膝から下の筋肉が、内側で一斉に裂けたように熱い。歪んでつながった骨へ急激な力がかかり、腿の付け根まで痙攣している。
月角兎の小さく軽い身体なら、敵から逃れるために何度でも使えた速度。
だが、人間であるリュゼルの骨格も筋肉も、その速さに耐えられない。
右脚の墓碑紋から、母兎の恐怖が流れ込む。
背後から迫る牙。
子どもたちの匂い。
戻らなければならないという焦り。
感情の波に意識を呑まれそうになり、リュゼルは右の腿へ小刀の柄を押しつけた。
「俺は、月角兎じゃない」
痛みを確かめるように呟く。
「この脚は俺のものだ。走る方向も、俺が決める」
墓碑紋の熱が僅かに弱まった。
その背後で、墓守蜈蚣が頭を持ち上げる。
骨の鎧に覆われた長い胴が洞窟へ雪崩れ込み、無数の節足が壁と床を同時に掻いた。細い岩柱が次々と折れ、その腹の下から骨喰いたちが溢れ出す。
「左へ!」
少女の声が鋭く響いた。
リュゼルは考えるより先に左へ踏み込んだ。
狭い割れ目へ身体を滑らせた直後、墓守蜈蚣の尾が元いた場所を薙ぎ払う。黒い棘が岩壁を抉り、砕けた破片が頬を裂いた。
「そのまま進んで。三つ目の分かれ道を右」
「見えているのか?」
「質問はあとです。走りなさい」
冷静な声だった。
けれど息が僅かに浅い。遠く離れた場所から声を届けることにも、何らかの力を消耗しているようだった。
リュゼルは小刀を杖代わりに走った。
最初の分かれ道を越える。
二つ目。
三つ目を右へ曲がった途端、通路が急な下り坂になった。
「段差があります。七歩先」
右目の《夜目》を凝らす。
黒い岩床が途中で途切れ、その先が一段低くなっていた。少女に告げられなければ、速度を殺せないまま足を取られていただろう。
背後から墓守蜈蚣の顎が迫る。
腐った血と土の臭いが鼻を刺した。
「《瞬脚》は長く使わないで。一度だけ、着地の直前に力を切りなさい」
「やってみる」
「失敗すれば両脚が折れます」
「もう片方は、落ちた時に折れている」
「冗談を言っている場合?」
「冗談に聞こえたなら、まだ余裕がある」
少女が息を呑む。
リュゼルは右脚の墓碑紋へ意識を沈めた。
母兎の記憶を拒まず、しかし焦りのすべてを自分のものにはしない。その中から、地面を蹴る一瞬だけを選び取る。
銀灰色の光が弾けた。
身体が段差の向こうへ跳ぶ。
足が岩床へ触れる直前、リュゼルは意識の中で石板の蓋を閉じるように力を断った。
速度が急激に落ちる。
それでも勢いを殺しきれず、肩から地面へ転がった。革袋を庇って両腕をつき、二度、三度と岩床を滑る。肘の皮膚が破れ、脇腹の傷から血が噴き出した。
背中の幼体たちが鳴いている。
リュゼルはすぐに革袋へ左手を回した。温かい身体が三つ。激しく震えてはいるが、どれも傷ついていない。
「よし……いるな」
「あなたの確認を先になさい」
「俺は声が出ている」
「声が出る人間でも死にます」
呆れと苛立ちが混じった声音だった。
リュゼルは血の混じった息を吐き、立ち上がった。
右脚の筋肉が震えている。踏み込むたび、裂けた箇所へ熱い針を差し込まれるように痛んだ。《瞬脚》をもう一度まともに使えば、本当に脚が千切れるかもしれない。
それでも止まれない。
墓守蜈蚣は段差をものともせず、長い胴を折り曲げて下りてくる。節足の一本一本が岩へ穴を穿ち、その振動が足裏から伝わった。
「次は?」
「正面。青い苔が途切れるところまで」
通路は進むほど狭くなり、幾つもの横穴へ枝分かれしていた。
左からは冷たい風。
右からは硫黄の臭い。
正面からは、濡れた鉄に似た匂いが漂っている。
少女は迷わなかった。
「右」
曲がる。
「伏せて!」
リュゼルは背中を丸め、岩床へ身を投げた。頭上を墓守蜈蚣の毒液が通り過ぎ、壁へ付着する。白い煙が噴き上がり、岩肌が泡を立てて溶けた。
「次を左。足元の赤い石には触れないで」
赤黒い鉱石の隙間を縫って走る。背後から追ってきた骨喰いの一匹が石を踏み、悲鳴を上げた。鉱石から生えた細い結晶が脚を貫き、瞬く間に身体を赤い石へ変えていく。
奈落の深層を知り尽くした道案内だった。
声の主が、長いあいだこの場所にいることだけは疑いようがない。
どれほど走ったのか。
時間の感覚はとうに失われていた。
裂けた脚から靴の中へ血が溜まり、踏み込むたび湿った音がした。胸の骨は呼吸を拒み、右腕の墓碑紋も熱を増している。
少女の声も、次第に細くなっていた。
「その先に、黒い岩扉があるはずです」
「扉?」
「中央へ手を当てて」
通路の先を、巨大な一枚岩が塞いでいた。
人の手で造られたものだった。表面には翼を広げた竜と、雫の形をした紋章が彫られている。ヴァルディオスの記憶で見た、崩れゆく黒い城の紋章と同じだった。
リュゼルは黒銀色の右手を扉の中央へ押し当てた。
墓碑紋が脈打つ。
重い音を立て、左右へ岩扉が開いた。
「中へ!」
身体を滑り込ませた直後、背後で墓守蜈蚣の頭が扉へ激突した。
大地が震える。
扉は閉じなかった。墓守蜈蚣の顎が隙間へ食い込み、黒い岩へ亀裂を走らせている。
それでも、リュゼルは目の前の光景から目を離せなかった。
巨大な地下神殿が、闇の中に沈んでいた。
天井は《夜目》でも届かないほど高い。折れた列柱が広大な床へ並び、その間を黒い水が細く流れている。壁面には崩れた王たちの彫像が立ち、すべてが中央へ頭を垂れていた。
無数の黒い鎖が、天井から垂れている。
細いものから、人の胴ほどの太さを持つものまで。鎖は互いに絡み合い、神殿の中央にある円形の祭壇へ集まっていた。
神殿の空気は、外の洞窟よりもさらに冷たかった。吐いた息が白く曇り、鉄と古い血の臭いが舌へまとわりつく。鎖は風もないのに微かに揺れ、そのたび幾千もの金属音が高い天井へ昇っていった。祈りの声を奪われた者たちが、代わりに囁いているような音だった。
祭壇を囲む床には、黒く変色した手形が無数に残っている。指を開いて逃れようとした痕も、爪が割れるまで石を掻いた痕もあった。どれも結界の手前で途切れ、内側へ届いたものは一つもない。
その祭壇に、一人の少女が座っている。
月光を閉じ込めたような銀白色の髪が、黒い石の上へ広がっていた。長い髪の隙間から、黒曜石に似た小さな角が後方へ伸びている。
白い手首には太い枷。
細い足首にも鎖が巻きつき、首と腰を拘束する黒環へつながっている。背中には半透明の黒紫色の翼があった。その付け根へ鉤爪のような枷が食い込み、翼を祭壇へ縫い止めていた。
肌には、鎖が擦れた古い傷が幾重にも残っている。
裾の裂けた黒いドレスは、乾いた血で固まっていた。長く動くことを許されなかったのか、片脚は不自然に投げ出され、足先から血の気が失われている。
祭壇の傍らには、割れた器が一つ転がっていた。内側には乾いた水垢が残っているものの、少女の手が届く距離からは僅かに外れている。誰かが与えるふりだけをして置いたのだと、考えるより先に分かった。
それでも少女は、背筋を伸ばしていた。
俯きもせず、助けを求めることもなく、祭壇へ現れた侵入者を見下ろしている。
深い紫紺の瞳。
瞳孔は人間のものよりも細く、闇の中で淡い光を宿していた。
人間ではない。
リュゼルは荒い息を押さえながら、少女を見上げた。
「あなたが、声の主か」
「そうよ」
声だけで聞いていた時よりも、少女は幼く見えた。
しかし眼差しには、王座から臣下を見渡す者の気高さと、誰にも触れさせない冷たさが同居している。
「本当に人間だったのね」
「知っていたんじゃないのか」
「感じ取れるのは、ヴァルディオスの力と、この神殿へ近づく命の気配だけでした。姿までは見えない」
「それでも助けた?」
「竜哭王の力を受け継いだ人間が、どのような者なのか確かめたかっただけです」
少女の視線が、リュゼルの右腕へ落ちる。
「人間へ力を遺すなど、あの方らしくないと思ったから」
あの方。
その呼び方に、ヴァルディオスを知る者の響きがあった。
リュゼルは少女の銀髪を見つめる。
炎に包まれた城から逃げていた幼子。届かなかった爪。あの記憶の中の少女と、目の前の姿が重なった。
胸の奥で、ヴァルディオスの喪失が大きく揺れる。
右腕の墓碑紋が熱を帯び、無意識に一歩を踏み出した。
「来ないで!」
少女が鋭く命じた。
同時に、祭壇を囲む床から黒い光が立ち上がる。
目に見えない壁へ右手が触れた。
肉の焼ける音がした。
「ぐっ……!」
リュゼルは反射的に腕を引いた。
掌から手首まで皮膚が赤黒く焼け、白い煙が上がっている。右腕の墓碑紋まで光を失い、心臓を直接掴まれたような息苦しさが胸を襲った。
膝が崩れる。
背中の幼体を潰さないよう左手をつき、必死に身体を支えた。
「その鎖は人間の命を吸う。触れれば死ぬわ」
少女は祭壇から動けないまま、眉を寄せていた。
冷たい声とは裏腹に、その紫紺の瞳は焼けた右手へ注がれている。
「だから言ったのです。私のいる場所へ来れば死ぬと」
「そういう意味だったのか」
「ほかに何があると思ったの?」
「俺を脅して、遠ざけたいだけかと」
「半分はその通りです」
少女はすぐに表情を消した。
リュゼルは焼けた右手を胸元へ引き寄せ、裂けた布を巻いた。痛みで指が震え、結び目がうまく作れない。
祭壇の少女へ、再び目を向ける。
近くで見れば、傷は想像以上に深かった。
首の黒環の下には紫色の痣が広がり、手首の枷からは新しい血が滲んでいる。翼の付け根へ食い込む鉤爪は、彼女が呼吸するだけでも肉を引いていた。
「どれくらい、ここにいる」
「あなたには関係ない」
「名前は?」
「それも関係ない」
突き放す言葉のあと、少女の指が僅かに動いた。
握ろうとしたのかもしれない。
だが鎖が短く鳴り、枷の内側から新たな血が一筋流れた。
神殿の入口で、岩の砕ける音がした。
二人が同時に顔を向ける。
黒い岩扉の隙間が、大きく広がっていた。
墓守蜈蚣の巨大な顎が入り込み、左右へ岩を押し退ける。骨の鎧に亀裂をつくりながら、細長い頭部が地下神殿へ現れた。
その後ろから、骨喰いの白い目が幾つも覗く。
「右奥の列柱へ走りなさい」
少女が告げた。
先ほどまでの拒絶とは違う、迷いのない声だった。
「三本目の柱の裏に、上層へ続く通路があります。あれは鎖の結界を越えられない。私を追えば祭壇の手前で止まる。その隙に逃げられるわ」
「あなたは?」
「見て分からないの?」
少女は両手を僅かに持ち上げた。
黒い鎖が鳴り、その細い身体を祭壇へ縫い止める。
「私はどこへも行けません」
墓守蜈蚣が神殿へ胴を滑り込ませた。
節足が床を叩くたび、列柱から細かな石片が落ちる。大顎から垂れた毒液が黒い水へ落ち、白煙を立てた。
「早く! あなた一人なら間に合う!」
リュゼルは逃走路を見た。
右奥に、三本の列柱が並んでいる。三本目の裏側には確かに人一人が通れる暗い隙間があった。
少女の言葉どおりなら、生きて逃げられる。
背中で、月角兎の幼体たちが震えていた。
リュゼルは革袋を下ろし、祭壇の外側にある石壁の窪みへ走った。崩れた彫像の台座が庇のように張り出し、墓守蜈蚣の身体からも死角になる。
三匹を枯れ草ごと窪みへ入れ、上から革布を掛ける。
「ここから出るな」
震える小さな背を一度ずつ撫でた。
幼体たちは母親の匂いを追うように、リュゼルの指へ鼻先を押しつける。
「必ず戻る」
小刀を抜き、墓守蜈蚣へ向き直った。
少女が、理解できないものを見るように目を見開く。
「何をしているの」
「逃げる準備だ」
「通路は反対側です。武器を抜く必要などない」
墓守蜈蚣の頭部が左右へ揺れた。
祭壇から流れる魔力と、リュゼルの血の臭い。そのどちらを先に追うか迷うように顎を鳴らしている。
「なぜ逃げないの」
少女の声が揺れた。
リュゼルは欠けた小刀を握り直した。
「俺一人なら、逃げたかもしれない」
紫紺の瞳を見る。
鎖につながれながら、弱さを見せまいと背筋を伸ばしている少女。
ここへ来るまで声を届け、自分の身体が傷つくことも構わず逃げ道を示した少女。
「でも、ここには置いていかれる痛みを知っている奴が二人いる」
少女の唇が、僅かに開いた。
冷たく整えられていた表情が初めて崩れる。
何かを言おうとした声は、墓守蜈蚣の咆哮に掻き消された。
節足が床を蹴る。
巨大な頭部が一気に距離を詰め、幾重もの牙がリュゼルの頭上へ振り下ろされた。
骨の谷を進むほど、イセラの足取りは遅くなっていった。道に迷っているわけではない。むしろ、忘れたはずの景色が一つずつ戻ってきているようだった。白く乾いた骨の斜面を越え、岩壁が細く裂けた場所へ入るたび、彼女の黒豹の耳が小さく動く。鼻先が風を拾い、琥珀色の瞳が足元の石や壁の傷を確かめる。そのたびに立ち止まり、しばらく何も言わず、また歩き出す。リュゼルは少し後ろを歩いていた。先頭を譲ったのは、道を知っているからだけではない。ここから先は、イセラの場所だと思った。足元には、誰かがかつて通った痕跡が残っている。灰色の岩へ半ば埋もれた布片。長い年月で色は失われているが、端に赤い刺繍糸が一本だけ残っていた。イセラがしゃがむ。指先で布へ触れようとして、止まった。「知ってるのか」リュゼルが尋ねると、彼女はしばらく答えなかった。「ハルクの外套だ」低い声。「赤い糸を縫ったのは、ミアだった」誰なのか説明はしない。それでも、それが仲間の誰かであることは分かった。イセラは布を拾わなかった。ただ一度だけ指先で端を撫で、立ち上がった。少し先では、折れた矢が骨の間へ刺さっていた。鏃は錆びている。軸の木は腐り、半分ほどしか残っていない。「これは?」リュゼルが訊く。イセラは見ただけで分かったらしい。「セラド」「弓を使ってた?」「ああ」短く答え、矢の横へしゃがむ。「下手だった」「弓兵なのに?」「本人は上手いと思ってた」わずかに口元が動いた。笑みとは言えないほど小さい。それでも、これまでのイセラにはなかった表情だった。「止まってる標的には当たった。動いてる相手には、よく外した」「それは結構まずいな」「だから私が先に脚を切ってた」「なるほど」「本人は『連携だ』って言ってた」今度こそ。イセラの口元がほんの少しだけ緩んだ。すぐに消えた。その後も痕跡は続いた。石の隙間に挟まった獣人用の耳飾り。小さな牙を三本束ねた首飾り。切れた革紐。竜人が身につける爪飾り。どれも朽ちかけている。どれも。イセラには分かる。「ここを通った」彼女が呟く。「間違いない」声が少しずつ固くなっていた。リュゼルの墓碑紋は、谷へ入った時から熱を持ったままだった。耳に聞こえない声が、絶えず頭の奥へ流れている。《暗い》《帰りたい》《誰か》
イセラの視線は、リュゼルの右腕から離れなかった。黒銀色の墓碑紋は、灯石の青白い光を受けても光らない。むしろ周囲の明かりを吸い込むように沈み、皮膚の下へ食い込んでいる。骨の谷を吹き抜ける冷たい風が外套の裾を揺らし、積み上がった無数の骨が微かに擦れ合った。かさり、かさりと乾いた音が続くたび、リュゼルの頭の奥では、まだ消えきらない死者の囁きが薄く重なっていた。イセラはその音とは別の何かを聞いているように、黒豹の耳を後ろへ伏せた。「死人を連れてる」もう一度、低く言う。「一人や二人じゃない」リュゼルは腕を下ろしかけたが、イセラの視線がそれを追ったため、止めた。「連れてるって言われても」「とぼけるな」湾曲刀へ手が伸びる。抜いてはいない。それでも、いつでも抜ける位置だ。イセラは一歩だけ距離を取った。「屍喰らい」その名を聞いた瞬間、ネフィリアの表情が変わった。「何ですって?」声が冷える。イセラは彼女へ視線を移さない。「奈落で昔から言われてる怪物だ」「怪物?」リュゼルが眉を寄せる。「死体を食う。死んだ奴の力を奪う。剣士を食えば剣を使えるようになり、術師を食えば術を盗む。何百人、何千人と食って、最後には自分が誰だったかも分からなくなる」イセラの琥珀色の瞳が、墓碑紋を睨むように細まる。「身体中に黒い墓印が広がって、最後は人間の形すら失うって話だ」骨の谷の空気が、一段冷たくなった気がした。リュゼルは反射的に右腕を見る。紋様は手首から前腕へ伸びている。最初に現れた頃より、明らかに広がっていた。古代魔獣ヴァルディオスを看取った時。その力と記憶を受け継いだ時。さらに死者溜まりへ近づき、無数の声を聞くようになってから、黒銀色は以前より濃くなっている。最後には人間の形すら失う。その言葉だけが、嫌に耳に残った。「違うわ」ネフィリアが前へ出る。彼女の足元から黒紫色の影が薄く広がった。攻撃ではない。ただ、リュゼルとイセラの間へ割り込むように。「彼は奪っていない」イセラがようやくネフィリアを見る。「随分と信じてるんだな」「知っているだけよ」「何を」「彼がどうやってその力を得たのか」イセラの耳が僅かに動く。「死人本人に聞いたのか?」「そうよ」即答だった。今度はイセラが黙った。骨の谷に、遠くで骨片が崩れる音が響く
血に濡れた大剣は、持ち主を失っていた。石床へ深く突き立った刃の脇に、半ば白骨化した巨躯が横たわっている。鎧の隙間から覗く骨格は人間より明らかに大きく、砕けた兜の左右には角らしきものが残っていた。死んでからどれほど経つのか分からない。それなのに刃へ付着した黒い液体だけは乾いておらず、灯石の青白い光を濡れたように返している。だが、リュゼルの目を奪ったのは大剣でも死体でもなかった。その向こうに、途方もなく広い谷があった。岩壁に囲まれた空洞という言葉では足りない。天井は灯石の光が届かないほど高く、左右の壁も闇の奥へ消えている。谷底を埋め尽くしているのは土ではなく、骨だった。獣の肋骨、人間の頭蓋、角を残した魔族の骨格、翼膜だけが黒く乾いた竜種の残骸。それらが幾層にも積み重なり、白灰色の斜面となって遥か奥まで続いている。そして、その骨の海の中央で。一人の女が戦っていた。褐色の肌。顎のあたりで鋭く切り揃えられた黒髪。頭頂から生えた丸みのある黒い耳は、獣のそれだった。腰の後ろから伸びる長い尾が、身体の動きに合わせてしなやかに揺れている。獣人。女は二本の湾曲刀を握っていた。右の刃で襲いかかる骨蜘蛛の前脚を受け流し、左の刃を胴体の下へ滑り込ませる。硬い外殻が擦れ、火花が散った。刃先が奥に隠れた黒い核を正確に穿つと、巨大な蜘蛛の身体が一瞬硬直し、そのまま何百もの骨片へ崩れ落ちる。「速い……」リュゼルは思わず呟いた。実戦経験の差は見ただけで分かった。踏み込む位置。刃の角度。次の敵を見る視線。一つの動作が終わる前に、すでに身体が次へ向かっている。無駄がない。それでいて機械的でもない。足場となる骨が崩れることまで計算し、滑るなら滑る動きのまま刃を振るう。自分より遥かに強い。少なくとも今のリュゼルが、正面から一対一で勝てる相手には見えなかった。それでも。「まずいな」女の左腕から血が流れている。肩口から肘にかけて大きく裂けており、黒い革鎧が赤黒く濡れていた。動くたびに傷口が開き、血が指先を伝って湾曲刀の柄へ落ちている。骨蜘蛛はまだ十を超えていた。死者溜まりの魔力を吸って動いているのか、身体の大部分は獣や人の骨を無造作につなぎ合わせたような形をしている。一体倒しても、周囲の骨山から新たな脚が突き出してくる。「行くぞ」リュゼルが踏み出した。
城を出てから、およそ二時間が過ぎていた。奈落に太陽はなく、空の色で時刻を測ることもできない。それでもリュゼルは歩数と休憩の回数、灯石の燃え方を身体に刻み込むようにして時間を数えていた。最初の一時間ほどは、城の周囲と大きな違いのない岩の通路が続いた。湿った灰色の壁、ところどころに群生する青苔、天井から落ちる冷たい水滴。シュカたちが話していた赤い岩場も通り抜けた。地熱を含んでいるらしく、掌を当てると人肌ほどのぬくもりがあり、そこだけはわずかに硫黄に似た匂いが漂っていた。ネフィリアは何も言わず歩いている。歩幅は一定だった。少なくとも、そう見えるようにしていた。リュゼルは前を向いたまま、背後から聞こえる足音へ意識を向けた。右、左。右、左。革靴が石を踏む音は乱れていない。ただ、最初より一歩ごとの間隔がわずかに長くなっている。呼吸も静かだが、時折鼻から深く息を吸っていた。まだ休ませるほどではない。そう判断し、リュゼルは自然なふりをして歩く速度を少し落とした。すぐ後ろから声が飛ぶ。「私に合わせているの?」「道が悪くなっただけだ」「今までと変わらないけれど」「石が滑る」「乾いているわ」「細かい砂がある」「ないわね」間を置いてから、リュゼルは振り返った。「元気そうだな」ネフィリアは紫紺の瞳を細めた。「喧嘩を売っているのなら買うわよ」「元気ならいい」それだけ言って前へ向き直る。背後で小さく息を吐く音がした。怒ったのか、呆れたのかは分からない。ただ、歩調はそのままになった。やがて通路の幅が広がり始めた。最初に変化へ気づいたのは匂いだった。湿った土とも、腐肉とも違う。乾いた骨を砕いた時に漂う、わずかに粉っぽい匂い。リュゼルは足を止める。灯石を高く掲げた。青白い光が壁面を滑る。そこから何かが突き出していた。白い。細長い。「骨……」近づく。岩壁へ半ば埋もれるように、人間ほどの長さを持つ骨が一本突き出している。大腿骨に見える。だが、太い。人間のものより一回り大きい。さらに灯石を横へ向ける。一本だけではなかった。壁のあちこち。石の割れ目。床。天井近く。数えきれない骨が、岩と一体化するように埋まっている。ネフィリアが隣へ並んだ。「魔物だけではないわね」「ああ」すぐ近くの壁には、明らかに人間の頭蓋骨が
探索に持ち出す道具を長卓へ並べ終えた頃には、広間の床へ淡い紫の光が落ちていた。天井に埋め込まれた王域の結晶灯は時間によって明滅するらしく、眠りから覚めてしばらくすると、夜を模した青黒い色から柔らかな薄紫へ変わる。地上の朝日とはまるで違う。それでも、いつまでも同じ暗闇だった奈落に目安となる光があるだけで、人の身体は不思議と時間を思い出すらしい。子どもたちは食事を終え、水路で顔を洗い、三匹の月角兎は広間の隅に積まれた青苔へ鼻先を埋めていた。リュゼルは長卓の上に水袋を二つ置き、縄を巻き直した。保存食、火口箱、薬草、包帯、解体用の小刀、革手袋、予備の灯石。昨日作った地図は湿気を避けるため革筒に収め、黒鎖短剣は腰へ差してある。死者溜まりそのものへ踏み込むつもりはないが、何が起こるか分からない以上、持てるものは持っていくべきだった。問題は、誰が行くかだった。「俺一人で行く」革紐を締めながら口にした途端、向かい側から冷たい声が飛んだ。「却下よ」リュゼルは顔を上げた。ネフィリアは長卓の反対側に立ち、両腕を組んでいる。封印が完全に解けた今、手首にも足首にも黒い枷はない。数百年にわたって彼女を柱へつないでいた六本の鎖も消え、白い肌には薄い傷痕だけが残っている。黒紫色の簡素な衣服は王域が生み出したものらしく、動きやすい細身の長衣に膝下までの革靴という姿だったが、その立ち方には拘束されていた頃とは違う静かな威厳が戻っていた。「まだ何も説明してない」「説明する前から分かるもの。あなたが一人で死者溜まりへ行こうとしているのでしょう」「中には入らない。周囲を見るだけだ」「昨日も同じようなことを言っていたわね」「実際、そのつもりだ」「あなたの『そのつもり』ほど信用できないものを、私は今のところ知らないわ」子どもたちが朝食の後片づけをしながら、二人のやり取りへ視線を向け始めた。シュカに至っては、水で濡れた皿を布で拭く手を完全に止めている。リュゼルは子どもたちの前で言い争うつもりなどなかったが、ネフィリアの表情を見る限り、こちらが折れなければ静かに終わる可能性は低そうだった。「城を空けるわけにいかないだろ」「なぜ?」「なぜって」「王域の結界は私が外へ出ても消えないわ」「でも、城から離れるほどあんたの魔力は弱くなる」ネフィリアの眉がほんのわずかに上がる。事実だっ
水音がするだけで、かつての地下神殿とは別の場所に思えた。《王域形成》が発動する以前、祭室の奥にあった水場は、岩の裂け目から濁った雫が落ちるだけの頼りないものだった。革袋を満たすにも長い時間がかかり、底には細かな砂が沈んだ。今では白灰色の石壁に沿って細い水路が走り、透き通った水が絶えず流れている。指を浸せば冷たく、鼻を近づけても腐臭も鉱物臭もない。崩れかけていた天井は継ぎ目のない黒銀の梁に支えられ、亀裂の奥から魔物が這い込んでくる気配も消えていた。城、とネフィリアは呼んだ。リュゼルには、まだその言葉が自分たちの居場所を指しているという実感がない。王座を思わせる高台があり、広間があり、寝室として使える小部屋がいくつも生まれた。外周には淡い紫色の膜のような結界が張られ、夜ごと聞こえていた獣の唸り声も遠ざかった。石床には冷気を和らげる熱が通り、裸足で歩いても以前ほど足裏が冷えない。それでも、目の前の木皿に載っている肉は増えなかった。リュゼルは切り分けた岩鎧猪の燻製肉を見つめながら、残量を頭の中でもう一度数えた。闇爪狼の干し肉が二袋半。岩鎧猪が一頭分には少し足りない程度。地下茸は食用確認済みのものが十数本。灰牙傭兵団が残した硬い乾燥パンは、子どもたちが無理なく食べられるよう水で戻せば三日分ほどになる。月角兎のために集めた青苔と柔らかな根草も、この周辺では十分な量が採れない。人が七人。月角兎が三匹。満腹を求めなければ、五日。さらに切り詰めれば七日。しかし、切り詰めた先に何があるのか。リュゼルはそこで計算を止めた。「リュゼル」呼ばれて顔を上げる。広間の反対側に座っていたネフィリアが、紫紺の瞳で彼の手元を見ていた。知らないうちに、肉を自分の皿から除けていた。一切れ。二切れ。脇へ寄せてある。「食べて」「あとで食う」「その言い方をする時は、食べないつもりでしょう」「食料の残りを見てただけだ」「それと、あなたの食事を減らすことに何の関係があるのかしら」言葉に詰まった。その間に、向かい側で衣擦れの小さな音がした。一番幼い少女が、自分の皿から肉をつまんでいる。五つか六つほどの年齢にしか見えない小さな手で、燻製肉を半分に裂こうとしていた。固い肉は簡単には千切れず、細い指先が赤くなる。隣に座るシュカの皿へ移そうとしているのだと気づき、リ







